84俺は知らないことにして尋ねた。だって、薔薇の部屋で勝手に覗いて読んだなんて言えないよ。「言って、それが何だったのかはっきり教えてくれないか」「綺羅々と奈羅が一夜を共に過ごしたと分かる映像が透明タッチパネルに送られてきたの。すごく悲しかった。私も綺羅々のこと好きだったから」もしもここで何も知らずに真実を知ったならと思うときっと、なんと怖ろしや、自分は混乱してしまったことだろうと思う。やはり、自分の知らないところで薔薇は苦しんでいたのだ。しかし、そうは思うもののせめて薔薇が自分を責めてくれていたら……と、到底無理なことまで考えてしまう。なんであの日酩酊状態になるまで酔っぱらってしまったのか、自分。なんで、もっと早くに薔薇に好きだと口に出して言わなかったのか。考えても考えても、後悔ばかりが襲ってくる。僕たちは奈羅の手によって両片想いを断ち切られていたのだ。しかも、薔薇も自分と同じ気持ちでいてくれたことを知った今では奈羅の所業は許せるものではなかった。そして薔薇を傷付けたことも到底許せはしない。「ただ酔っぱらって寝てただけなのに、君と僕の仲を裂くために奈羅が何かあると勘違いしそうな映像を君に送ったんだ、きっと。それが真相。あれから僕は君を上手くあの時の時間軸の金星にどうにかして連れ戻したくて、長老の所へ行き勉強してきたんだ。さぁ、まだ間に合うから僕と一緒に行こう」「綺羅々、ごめんね。私、ちゃんとあの時あなたに向き合えば良かった。でも好きだったあなたに奈羅とのことは本当にあったことだと……奈羅のことが好きだと言われるのが怖かった。本当に好きなのは彼女で私とは軽い気持ちで飲みに誘っただけだと知るのが怖かったの。早とちりして、地球に逃げてしまってごめんなさい。こんな私の事を長い間待っていてくれてありがとう。だけど……」「だけど?」
85「だけど、一緒には行けない。私ね、地球に産まれて永遠のパートナーがいることを知ったの。その人《夫》と長い長い気の遠くなるくらい長い時を経てまた巡り逢えて、その夫だった圭司さんが迎えに来ることになってるの。彼がね、今際の際『この世とあの世の狭間に行くことができたらそこで待っててほしい。必ず迎えに行くから』って言ったの。だから、私はここでずっと彼を待ってなきゃいけないの。綺羅々、私のことは忘れていい女性《ひと》見つけて」お互いの行き違いのあった気持ち、そして美鈴とは両片想いだったことの確認もできた。だけど、自分との出会いのあとで永遠のパートナーに出会ったという。このことが綺羅々にとっては、返す返すも悔しいことだった。綺羅々は思わず薔薇の腕を取り、再度自分の気持ちを伝えた。「僕との金星での一生を終えてからその人とまた再会すればいいんじゃない? その人はまた少しくらいなら待っててくれそうじゃない?」そう薔薇の気持ちに揺さぶりをかけてみるも彼女は首を縦に振らない。綺羅々が彼女のことを想い切れずに腕を放さないで佇んでいると……。1人の男《根本圭司》が薔薇の腕から綺羅々の手を振りほどくと「悪いね、彼女を俺に返して」と言い放ち、薔薇を抱きしめて言った。「待たせてごめん。心配したろ? 不安にさせてごめん」そうやって男は薔薇に謝りながら肩を抱き、綺羅々の前から立ち去った。自分だってどんなに薔薇を好きだっか。ずっと薔薇が人間としての一生を終えるのを待っていたのに。交際をして妻になってもらいたいと思っていたのに。こんな結末が待っていようとは……。思えば思うほどひたすらに奈羅のことが呪わしく、心の中で彼女への憎悪が膨らんでいくのを止められなかった。そして綺羅々は失意のうちに宇宙船に乗船し、金星へと戻って行くのだった。
86 あの日、どういうことで奈羅に付いて行ったのか? アンモデーション《宿泊施設》の同じ部屋で、まるで2人の間に何かあったかのような怪しい雰囲気の映像が無断で撮られ薔薇に送り付けられていたわけで、明らかに確信犯的犯行と思わざるを得ない。薔薇が地球上での生が終わるのを待ち、ようやく元の同じ場所同じ時間軸に連れ戻せると期待して次元と時空の狭間で待ち受け、そして望み通り薔薇を見つけることができたのに……行き違いがあったとはいえ金星でお互いが両片想いだったこともようやく確認し合えたというのに……なんと薔薇には自分との前世よりももっと遥か彼方より契りを交わしていた愛しき男がいたというではないか。探して追いかけて待って待ち続けた結果が、予想もしてなかった結果に綺羅々は男泣きをした。そして絶望に襲われた時、綺羅々の胸に憎悪とともに仄暗い感情が芽生えた。 ◇ ◇ ◇ ◇綺羅々は薔薇が金星からいなくなったしまった日から、地球上の時間軸で計るなら半年しか経っていないところへと戻った。バーの片隅で酒を飲んでいるところへ見知ったヤツ、稀良《ケラ》が隣に座った。久しぶりだな綺羅々。最近見かけなかったけど元気だった?……ってあんまり元気そうじゃないな。別の日にしたほうがいいかな。「いや、構わないさ。で、何?」「奈羅と少しくらい交流あったりする?」「あったらどうすんの?」「取り持ってもらえないかと思ってさ」腸煮えくりかえるほどの名前を耳にし、思わず綺羅々は平常心を失くすところだった。「で、いつから? 彼女と同じラボ《研究室》になって1年弱だろ」「いやさぁ、それがつい最近深夜に連れとパブに繰り出したらちょうど奈羅も友達と来ていて明け方まで相席して盛り上がったっていうか」「ふーん、それで?」「なんか、いいなぁ~って思ってさ。ただ何となく素面で誘うのって苦手なんだよな」「話が見えない……。俺に相談? 何の?」『交流あったりする?』の質問にあるともないとも答えられるはずもない綺羅々は、相手の意図するところを探ってみる。「あれから気になって、奈羅のこと」目の前のチャラ男はらしくない発言をする。目の下と首筋がほんのりと赤いじゃないか。本気なのか? それにしても奈羅の二文字を聞かされた俺はというと、吐き気がし
1昨日までのあたしは、平凡ながらも幸せだった。 大恋愛の末、結婚をした知紘《ちひろ》との暮らしに。……なのに、たった一日でグルリンパっとあたしの幸せが ひっくり返ってしまった。それはものの見事に。こんなことって、ある? びっくりし過ぎて涙も出やしない。 それは……ほんの小一時間ほど前の出来事。[今は夜時間]知紘が珍しく酩酊状態に近いぐらい酔っぱらって帰宅。 ドアを開けるなりいきなり、トーク炸裂。「ねね、聞いてぇー。うひひ、俺ってなんでこうモテちゃうんだろねー」「チーちゃん、気をつけて。こけそうだよ」知紘が片手を壁について、靴を脱ごうとしているんだけど、 身体がふらついていて危うい。それでも話は止まらない。「俺さぁ~、田中真知子さんからデート誘われたんだぜ。 あーっ、モテてごめんねっ。うひひっ。 あっ、おいっ、そこのおばさん、嘘じゃないぜっ。 信じてないなぁ~。ちよっと待ってみ……」 くだらないことを言いながら知紘がふらふらしながら ポケットに手を突っ込む。出してきたのは小さなカードのような名刺。 「これ、見てー」 私に手渡してきたので仕方なく名刺を見た。 『田中真知子』と保険会社の社名入りの名刺だった。 確かに知紘の言う名前と一致している。『そんな女とどこで知り合ったのよ』 知紘に聞きたいわけじゃないから訊かない。 知りたいのは本当だけど。 名刺からして、彼女の営業絡みというのはおよそ察しはつくけども。だけど今日は野球のサークルからのご帰還なわけで、どいうこと? って思うわけよ。会社に来て会ったというのでないのなら、野球の練習している場所に 彼女が来てたってことになるわよね。 「はい、はいー。見た? じゃっ、も……返してっ。 彼女さぁ、むちゃくちゃ俺好みなのよー。ドストライクぅ~」『はぁはぁ、さようでございますかっだわさ』 ここまではギリ許容範囲だった。 「んとにな、古女房とは比べ物にならんっ。あははははーっ。 真知子ぉ~、スキっ」 そう言いながら知紘は名刺にキスをした。 『ぎゃあ~、阿保タレがっ、なにを……』「ねねっ、ちょ、聞いてるぅ? おばさん」「おばさんって誰やねん」 私が訊くと、ちゃんと反応する知紘。 いらんところ
2最愛だと思っていた夫からの悲しい侮蔑の発言の数々を聞かされ、苦しくて悲しくて情けなくて胸が潰れそうだった。それは私の心を衝撃MAXの威力で破壊した。熟睡できず、うつらうつらとした眠りのあと、重い心を抱えたまま、何とか起床し食事の準備に取りかかる。台所に行くと、風呂場からシャワーの音が聞こえてくる。昨夜は泥酔していて、そのまま寝たので今、シャワーしているのだろう。 ◇ ◇ ◇ ◇知紘からおばさん呼ばわりされていた美鈴は、オードリー・ヘプバーンのように上方に流れる眉を持ち、日本女性にしては凛々しく筋の通った高い鼻をしている。くっきりとではないが、富士額らしい美しい額とバランスのよいやや肉厚の唇、そして痩せているせいか均整の取れている範疇ではあるが頬骨がほんの少し出ているという、そんな容貌をしている。最後の仕上げが深い悲しみの色を湛えた切れ長の黒曜石の瞳で、美鈴の魅力を存分に引き出している。ヘアーはワンレングスのブラック、ロングヘア―。そんな美鈴には赤い色目の洋服がよく似合う。そして寂しげな風情の微笑みが……。翌朝の朝食でのこと。シャワーを終えたチーちゃんが食卓に着いた。すかさず、私はひとつの質問を投げかけた。「ねっ、チーちゃん昨日はなんかいいことあった?」「……ン~っと、そうだ、楽しかったかな。楽しかったような気がするな、でもまぁ、飲み始めてから後半ちょっと、覚えてないなぁ~。久しぶりに飲み過ぎた」「楽しかったみたいよ、帰ってきた時なんか、超ちょう、ご機嫌さんだったもんっ」「俺、楽しいっとかなんとか、言ってた?」「言葉で、楽しい……は言ってないかな。楽しそうに見えただけ」「ふ~んっ」焼いたトーストを食べている時もチーちゃんは何気にルンルンだ。「チーちゃん……」ズズっとミルク多めのカフェオレを飲む知紘に訊いてみる。「チーちゃんの中ではさぁ、『おばさん』っていくつからの線引きなのかな」
3「いきなり、なに?」「うん、私ももうすぐ30の大台だし」「美鈴は見た目25才くらいでまだまだいけんじゃん。 そーだな、おばさんねー……流石に40才越えたら おばさんのカテゴリかなぁ。 でも昔と違って今の女性は見た目が若いからねぇ~」 「そうなんだ、40代からおばさんってカテゴリに入るのね。 そっか、そっか」 「どうしちゃったの、突然『おばさん』の話って、ははっ。 今日の美鈴、変だ」 「チーちゃん、昨日家に帰ってきた時のこと覚えてないの?」「うん、そうだね。家に入ったのは覚えてるかなー」「私のこと、『おばさん』って連呼してたこと覚えてないんだ」「ブッ。そんな失礼なこと言ってないでしょ、言ってない」「覚えてないのに、どうして言ってないって断言できるの」「もし、言ってたとしても美鈴のことじゃないと思う。 誰かほかの女性のことだよ、きっと。だって俺、美鈴のこと『おばさん』だなんて思ったことないもん」 「ふーん。まっいいや。そういうことにしておきましょ」この問答があってか、チ―ちゃんはそそくさと家を出ていった。 ◇ ◇ ◇ ◇その週の週末は雨だった。 それなのに……朝から早起きしてる知紘が出かける準備を始めた。「チーちゃん、今日は雨だよ。どうして出かける準備してるの?」 「あっ、チームのみんなでカラオケ行くことになってるんだ」「チーちゃん、野球ないんだからさぁ、一緒に映画見ようよ。 Wowowの映画録画してるのもあるし、オンデマンドでも観れるし、 いいの探して一緒に観ようよ。前は一緒によく観たじゃない」「それ、今度な。ひとまず今日はもう約束してるから。じゃ、いってくるわ」「チーちゃん……」 玄関先で知紘に声掛けする私の目の前で知紘が玄関から外へとスルリと抜け出し、ドアがゆっくりと閉まる空間で私の声が空しく響いた。 『寂しいよ~』以前なら野球のない日にわざわざ出かけて行くことは なかった……と思う。例の真知子ちゃんが理由なのかもしれない。私と知紘は結婚して7年なんだけど、7年で古女房って よく考えてみると酷すぎなぁ~い? なんか、チ―ちゃんのことが分かんなくなってきた。1週間前に酔っぱらって帰って来る前は、なんだかんだ 二人の生活が楽しかった。 たった1週間のことで、こんなにも私
4「休日なのに、また今日も出かけるの?」私と一緒にいるよりも楽しい場所と楽しい人がいるんだね、たぶん。 「うん、前からの約束だからさ。行ってくる。 あぁ、晩御飯いらないから……。それじゃ」 「待ち合わせの人ってアノ真知子ちゃんなんだね」「へっ? ま、ま、マチコぉ~?」『とぼけなくていいわよ。 真知子ちゃんとデートするって、あなたが言ってたんだよ?』酔っぱらってた日にね。知紘は首を傾げながら知らないふうで玄関を出て行った。 今にも私は田中真知子ちゃんに夫を取られそうだ。 夫の様子から、このままだと取られそうなどと甘いこと 言ってられないと思った。 この勢いで夫を……知紘を寝とられるかもしれない、そう思えたから。その月の残りの土日併せた休日の4日間、夫が家で寛いだ日は 1日もなかった。 月が替わった頃、ふと思い立ち野球部が公開している インスタグラムを見てみた。 知紘がある女性の肩を抱き寄せて映っている画像を目にする。 美鈴は、この人物がたぶん田中真知子なのだと直感した。 そこでハタと閃き、今度は『田中真知子』インスタグラムと検索してみると、彼女はインスタを公開していた。驚くべきことに彼女個人のインスタにちゃっかりと知紘は恋人でもあるかのよう にパソコンの画面の中に……インスタの画像2枚に、楽し気な様子で映り込んで いた。そこは、あきらかに部屋の中だった。 部屋の中で撮影したものだ。しかも周囲に野球の関係者は見当たらない。 私は思わず叫んでいた。『真知子、それは私の夫よ。返して~』 ねねね、ちょっと、酷くない? 奥さんのいる旦那を取るなんて……人のモノを盗るなんてドロボーじゃない? そう、ドロボーよぉ。 『真知子の泥棒~』部屋の中で私の声が空しく響く。 ◇ ◇ ◇ ◇翌月の休日も夫は家に留まることなく、ウキウキと出かけて行った。堪り兼ねて、2週目の休日に引き留めてみた。◇寂しい「チーちゃん、たまには一緒に過ごそうよ。寂しいよ」「ごめん。だけど今は野球部のメンバーと親交深めときたいんだよね。 やっぱり試合の時にものすごく効いてくるからさ。 寂しい思いさせてごめんね。 アレだよ、今日は夕飯作んなくていいし家のことも適当にして
5 *美鈴と知紘の出会い、それは約8年前に遡る**美鈴の学生生活最後の年のこと。 大学から最寄り駅までの道を変えたところ、毎朝ではないものの ほとんど朝、知紘とすれ違うようになり社会人で男振りの良い 知紘は大人の素敵な男性に見えた。 それはちょうど美鈴が同級生の宗方守《むなかたまもる》と入学直後から 3年間も付き合いながら振られた直後のことだった。実際に振ったのは美鈴のほうだったのだが二股に気付いて振ったの だから、実質美鈴が振られたようなものだ。美鈴が相手を追い込まなければ、相手の男はふたりの女子の間を泳 いで上手くやろうとしていたので交際はグダグダながら続いていた のかもしれない。けれど、性格的に1人の人間を友達ならばいざ知らず、恋人を2人 で分かち合うなんていう気持ちの悪いことはできなかった。未だ、相手の男子学生からたまにメールなどが届く。美鈴はメール は勿論のこと、校内で彼に会ってもスルーしている。このような状況もあり、知紘とすれ違う朝の時間は目の保養タイム となっていった。 ********あれからたまたま学食などで出会わしたりすると、話し掛けて来る元彼の守。 これまでは、怒りMAXでひと言聞くだけでそのあとは振り払っていた美鈴。しばらく、会うことなく過ごしていたのだが、ある日のことバッタリ学食で 遭ってしまう。 この日は元彼の二股を知り、別れの言葉を叩きつけた日から20日余りが 経過していたせいか、美鈴のほうにも話を聞くくらいの余裕があった。 醒めた目をして、守の話を聞いていた。「また、連絡するな。じゃあ」ほとんど、相槌も打たずに彼と向き合ってただそこに棒のように突っ立って いただけの美鈴に守は愛想よく社交辞令でか? いつメールを出しても返事 をしない美鈴にそう言って離れて行った。振り返なければ良かった……。なんと、守が歩いて行った先は、グループになっている男子学生数名と女子 学生数名のいるところだった。 その中の1人の女子が、守が自分と二股して付き合っている女だったのだ。どこまでも舐めたことをして平気な守に美鈴は反吐が出そうになる。 いつまで、くだらない浮ついた男に心乱されなければならないのか。 あんな男の話をにこにこしながら聞いたわけではないと
86 あの日、どういうことで奈羅に付いて行ったのか? アンモデーション《宿泊施設》の同じ部屋で、まるで2人の間に何かあったかのような怪しい雰囲気の映像が無断で撮られ薔薇に送り付けられていたわけで、明らかに確信犯的犯行と思わざるを得ない。薔薇が地球上での生が終わるのを待ち、ようやく元の同じ場所同じ時間軸に連れ戻せると期待して次元と時空の狭間で待ち受け、そして望み通り薔薇を見つけることができたのに……行き違いがあったとはいえ金星でお互いが両片想いだったこともようやく確認し合えたというのに……なんと薔薇には自分との前世よりももっと遥か彼方より契りを交わしていた愛しき男がいたというではないか。探して追いかけて待って待ち続けた結果が、予想もしてなかった結果に綺羅々は男泣きをした。そして絶望に襲われた時、綺羅々の胸に憎悪とともに仄暗い感情が芽生えた。 ◇ ◇ ◇ ◇綺羅々は薔薇が金星からいなくなったしまった日から、地球上の時間軸で計るなら半年しか経っていないところへと戻った。バーの片隅で酒を飲んでいるところへ見知ったヤツ、稀良《ケラ》が隣に座った。久しぶりだな綺羅々。最近見かけなかったけど元気だった?……ってあんまり元気そうじゃないな。別の日にしたほうがいいかな。「いや、構わないさ。で、何?」「奈羅と少しくらい交流あったりする?」「あったらどうすんの?」「取り持ってもらえないかと思ってさ」腸煮えくりかえるほどの名前を耳にし、思わず綺羅々は平常心を失くすところだった。「で、いつから? 彼女と同じラボ《研究室》になって1年弱だろ」「いやさぁ、それがつい最近深夜に連れとパブに繰り出したらちょうど奈羅も友達と来ていて明け方まで相席して盛り上がったっていうか」「ふーん、それで?」「なんか、いいなぁ~って思ってさ。ただ何となく素面で誘うのって苦手なんだよな」「話が見えない……。俺に相談? 何の?」『交流あったりする?』の質問にあるともないとも答えられるはずもない綺羅々は、相手の意図するところを探ってみる。「あれから気になって、奈羅のこと」目の前のチャラ男はらしくない発言をする。目の下と首筋がほんのりと赤いじゃないか。本気なのか? それにしても奈羅の二文字を聞かされた俺はというと、吐き気がし
85「だけど、一緒には行けない。私ね、地球に産まれて永遠のパートナーがいることを知ったの。その人《夫》と長い長い気の遠くなるくらい長い時を経てまた巡り逢えて、その夫だった圭司さんが迎えに来ることになってるの。彼がね、今際の際『この世とあの世の狭間に行くことができたらそこで待っててほしい。必ず迎えに行くから』って言ったの。だから、私はここでずっと彼を待ってなきゃいけないの。綺羅々、私のことは忘れていい女性《ひと》見つけて」お互いの行き違いのあった気持ち、そして美鈴とは両片想いだったことの確認もできた。だけど、自分との出会いのあとで永遠のパートナーに出会ったという。このことが綺羅々にとっては、返す返すも悔しいことだった。綺羅々は思わず薔薇の腕を取り、再度自分の気持ちを伝えた。「僕との金星での一生を終えてからその人とまた再会すればいいんじゃない? その人はまた少しくらいなら待っててくれそうじゃない?」そう薔薇の気持ちに揺さぶりをかけてみるも彼女は首を縦に振らない。綺羅々が彼女のことを想い切れずに腕を放さないで佇んでいると……。1人の男《根本圭司》が薔薇の腕から綺羅々の手を振りほどくと「悪いね、彼女を俺に返して」と言い放ち、薔薇を抱きしめて言った。「待たせてごめん。心配したろ? 不安にさせてごめん」そうやって男は薔薇に謝りながら肩を抱き、綺羅々の前から立ち去った。自分だってどんなに薔薇を好きだっか。ずっと薔薇が人間としての一生を終えるのを待っていたのに。交際をして妻になってもらいたいと思っていたのに。こんな結末が待っていようとは……。思えば思うほどひたすらに奈羅のことが呪わしく、心の中で彼女への憎悪が膨らんでいくのを止められなかった。そして綺羅々は失意のうちに宇宙船に乗船し、金星へと戻って行くのだった。
84俺は知らないことにして尋ねた。だって、薔薇の部屋で勝手に覗いて読んだなんて言えないよ。「言って、それが何だったのかはっきり教えてくれないか」「綺羅々と奈羅が一夜を共に過ごしたと分かる映像が透明タッチパネルに送られてきたの。すごく悲しかった。私も綺羅々のこと好きだったから」もしもここで何も知らずに真実を知ったならと思うときっと、なんと怖ろしや、自分は混乱してしまったことだろうと思う。やはり、自分の知らないところで薔薇は苦しんでいたのだ。しかし、そうは思うもののせめて薔薇が自分を責めてくれていたら……と、到底無理なことまで考えてしまう。なんであの日酩酊状態になるまで酔っぱらってしまったのか、自分。なんで、もっと早くに薔薇に好きだと口に出して言わなかったのか。考えても考えても、後悔ばかりが襲ってくる。僕たちは奈羅の手によって両片想いを断ち切られていたのだ。しかも、薔薇も自分と同じ気持ちでいてくれたことを知った今では奈羅の所業は許せるものではなかった。そして薔薇を傷付けたことも到底許せはしない。「ただ酔っぱらって寝てただけなのに、君と僕の仲を裂くために奈羅が何かあると勘違いしそうな映像を君に送ったんだ、きっと。それが真相。あれから僕は君を上手くあの時の時間軸の金星にどうにかして連れ戻したくて、長老の所へ行き勉強してきたんだ。さぁ、まだ間に合うから僕と一緒に行こう」「綺羅々、ごめんね。私、ちゃんとあの時あなたに向き合えば良かった。でも好きだったあなたに奈羅とのことは本当にあったことだと……奈羅のことが好きだと言われるのが怖かった。本当に好きなのは彼女で私とは軽い気持ちで飲みに誘っただけだと知るのが怖かったの。早とちりして、地球に逃げてしまってごめんなさい。こんな私の事を長い間待っていてくれてありがとう。だけど……」「だけど?」
83 ―――――――――― 夫からの今際の遺言 ―――――――――「古の契りを結んだあの時よりも、一緒に暮らせた今生でもっともっと君を 好きになった。 今までこんなに人を愛したことはない。絶対次の世でも一緒になろう。 もしも、美鈴がはぐれてしまったとしても僕はまた何年、何十年、何百年か かろうとも這ってでも君のところまで迎えにいくよ。だから待っていて」『―――――― で待っていて』と夫は呟やきあの世へと旅立っていった。 ―――――――――――私は子供たちに見守られながら、現世を離れた。 今はあの世と現世の狭間にいる。 先に逝ってしまった夫は今どこにいるのだろう。 いないはずの夫の姿を探していたら見知った顔が近づいてきた。「綺羅々、どうして……」 「薔薇《美鈴》、君が誤って地球に生れ落ちてしまった時は本当に つらかったよ。 どうしてあんな場所に連れていったのかと自分を責めもした。 それで長い間君が地球での一生を終えるのを待ってたんだ。 迎えに来た。どう? 金星にいた頃のこと思い出した?」「どうして地球に来て私を慰めてくれたの? そしてどうしてこんなところで私を待ってるの?」 「薔薇のことが好きだからさ」「そうだ、私、薔薇って呼ばれてたのね」「思い出せたんだ、良かった」「でも、あなたは奈羅のことが好きだったんじゃ……なかったの?」「違うよ、僕は君が……君のことが好きだったんだよ」 「嘘っ。私はあなたに振られたと思い裏切られたような気持ちになって、 それが辛過ぎてあの日、わざと滑り台の上から地球上に滑り降りたの」「どうしてそんなふうに思ったの? あの日は酔い過ぎて失態を晒してしまったけど、僕は薔薇と初めていっぱい 話せてすごくうれしかったのに」「だって……奈羅から見たくなかったものが送られてきたのよ」
82美鈴と圭司夫妻は、結婚して2年後に娘を授かった。そして、そのまた2年後に息子を授かり、彼らは4人家族となる。結婚後、立て続けに2人の子供に恵まれた美鈴は、元々在宅仕事をしていて融通が利くため、下の子が4才になるまでほぼ専業で暮らした。なので、贅沢はできなかったが、休日になると圭司が子育てや家事をできるだけフォローしてくれ、ストレスが溜まりがちな子育ても楽しみながらでき、2人の子供たちに思い切り愛情を注ぐことができたことは、非常に喜ばしいことだった。そして、いつも美鈴のことを気遣い子供たちにも愛情をたくさん注いでくれる圭司との暮らしは、美鈴にとって夢のようでもあり理想的な人生となった。好き合って結婚した相手から裏切られるという経験をしていた美鈴は、再婚にあたり実は少し不安を抱えていた。どんなに誠実な人でも心というものを持つ人間には、心変わりというものが常に付きまとい、誰がいつ新しい出会いで気持ちに変化が訪れるのか、誰にも分からないものだから。 ***やがて、子供たちそれぞれに愛する人ができ、彼らが家庭を持った時、美鈴は感慨い深いものを感じた。私と夫はまだ今でも信頼し合い愛情を持って一緒にいられる。これは本当に幸せなことだわ、と。そして、家から子供たちが巣立ち、また元の2人の暮らしに戻り日々の暮らしを積み重ねる日々の中で、1日また1日と夫と仲睦まじく過ぎてゆく日々に感謝と喜びを胸に刻み続けるのだった。 ◇ ◇ ◇ ◇そのようにして2人の愛しき人生はその後も続き、85才で圭司は天寿を全うし、美鈴もあとを追うようにして2人の間にもうけた息子と娘に看取られて、88才老衰で長患いすることなく別の次元へと旅立っていった。 ――――――――――――――――――西暦2022年からお話は始まっていますので、根本圭司が亡くなるのは――2077年頃 根本美鈴が 〃 2075年頃 すごいっ、どんな世界なのでしょう。 ――――――――――――――――――
81大好きな男性《ひと》の肌に触れ続けていくうちに、声にして出《だ》そうなんて思ってもみなかった言葉がいつの間にか零れ落ちる。「あなたが赤ちゃんだった頃、ヨチヨチ歩きを始めた頃、たどたどしく話ができるようになった頃、運動会で走っている姿、学生服を誇らしげに着ている姿、大学生のあなた……どのあなたも見ておきたかった。私を見つけてくれてありがとう」そう告げながら美鈴はいつの間にか圭司の背中に全身を預けて、そして泣いていた。この時の美鈴の心情は、恋人としてだけではなく母性の加わった母親でなければ感じられないような域にまで達していた。それまで美鈴の下で心地良さとともに美鈴の重みに耐えていた圭司が美鈴を抱きかかえるようにしてグルリと身体を動かし2人の位置が反転した。圭司が美鈴を組み敷いた格好になり、美鈴の目に溜まる涙を親指の腹でひとすくいしたあと、近くにあったティッシュを渡してくれた。「ありがと。君のやさしさが心に染みたよ。幸せなのにすごく胸が苦しい。この苦しさを解放したいな」そう言うと圭司の口付けが、美鈴の顔の上に落とされ、やがて口元へそして最後に唇へとやってきた。幾度となくはまれ、ついばまれ、美鈴は切なさと喜びが綯《な》い交ぜになり何も考えられなくなる状況の中、されるがまま圭司の行為を受け入れた。この夜のことは、二人にとって生涯忘れがたく素晴らしい時間になったことは言うまでもない。このようにして、この旅で互いの絆をより一層深めて帰路についた2人は、バタバタとその後、それぞれの遠方に暮らす両家の親に挨拶に行き、結婚式も挙げず記念撮影のみで籍だけ入れて結婚を済ませた。
80 「有難いけど……君よりデカい僕の身体を抱くのは難しいんじゃない?」 「そうなの、そこが大問題なんだけどでも抱きたい。 どうしたらいいかなぁ~」「じゃあさぁ、取り敢えず君の前に滑り込んでみようか」「うん」 『馬鹿だなぁ~そんなの無理だよ』とか一刀両断せずに、協力してくれる 彼に私は増々恋心と切なさとを募らせた。私の両脚の間に座った……座ってくれた彼、疲れるだろうに程好い加減で 私に半身を預けてくれる。 到底私が腕を回しても両手を組めそうにもない彼の身体を後ろから抱きしめる。 私は彼の逞しくてきれいな肌の背中に顔を埋《うず》めてみる。「いい匂い……石鹸の匂いがする」「いい気持ち、背中でいい気持ちになったのは初めてだよ」「「ふふっ」」 「ありがと。この体勢だと圭司さん疲れるでしょ。 あのね、ほんとに気持ち良くなってもらいたいから今度はうつぶせ寝に なってください」私がそう言うと、うつ伏せの体勢になるため起き上がった彼が、座っていた 私の手を取り、立ち上がらせてくれた。 そして「じゃあ僕も少しの間ハグさせて」と言い、私はしばらくの間 彼に抱きしめられた。そしてそのあと、彼はベットに横たわりうつ伏せになった。「えーっと、今から私がすることって私にとっても初めてのことだという ことを知っておいてください。他の誰にもしたことがないことをさせていただきます」 『誰にでもするような変な女と思われたくなくて先に断りを入れた』「うん」圭司さんは俯いたまま返事をくれた。 今からしようとすることを考えると、こちらに視線を向けられなかったこと は有難かった。私は彼の腰辺りの位置に両膝をついて彼を愛でていくことにした。まず彼の肩から腕にかけて何度も両手で撫でた。背中、腰にも手を延ばし、マッサージを続ける。 「気持ちいい……」と言う彼の呟きが聞こえ嫌がられていないことを知り、 続けてそのまま愛でるように首筋から始まり腰までを、何往復も両手で緩急 をつけマッサージを続けた。
79◇その時がきた私たちはこれまでのようにまったりと2人の時間を紡いでいた。いつも会っている時は彼の存在を感じて幸せだった。そして別れ際におでこに軽いタッチのキスを落とされたことは二度三度あったけれど、そこ止まりの付き合いが続いた。そうそれは、まるで学生のような清い付き合い方だった。そのせいか週末会える時は、1週間分のトキメキとドキドキ感が半端なくいつかその日を迎える日がくれば、自分はどうなってしまうのかと不安を感じるほどだっだ。そんな中、いつものように近所回りを散歩して私の畑に差し掛かった時、圭司さんからゴールデンウイークに海外への旅行を誘われた。国内をすっ飛ばしてのいきなりの海外旅行に少し驚いたけれど、うれしかった。3泊4日くらいで行くことになり、私たちはその日を楽しみにお互い仕事や家事を頑張りその日を迎えた。――――――――――― 初めての夜 ―――――――――――旅行先の1泊目はお疲れ様タイムということで嘘のようだけど、友だち関係のように長年連れ添った夫婦のように疲れをとるため、お休みのキスだけをして静かに 就寝した。そして翌日はクイーンズタウンで観光を楽しみ、早めにホテルに戻った。今宵こそは私たちにとっての初めての夜で暗黙のうちに迎えた瞬間、その時はきた。 ◇ ◇ ◇ ◇先にベッドに入っていた圭司さんからシャワーを終えたばかりの私は『おいで』と手招きされる。私はドキドキしながら彼の横に滑り込む。彼がすぐに手を握ってくれた。「こっち向いて」「何か恥ずかしい」そんな言葉を口にしつつも私は言う通り彼の方を向いた。するとゆっくりと彼の口付けが私の唇に落とされた。それは軽くそして深く、互いの唇が重ねられていく。彼が私を見て微笑んでくれ、このタイミングを逃さず私は自分の切なる望みを口にした。「私、あなたを抱きたい《肌を合わせたい》全身全霊で」
78引き続き、2月も畑を耕す作業は続いた。そして今日も、私は相変わらず彼が耕運機で再度作業している横で、チマチマと畑の端で雑草抜きをした。今日もこのあと2人で夕飯を摂る。朝のうちに仕込んでおいた炊き込みご飯とお豆腐とネギ、ワカメ入りの味噌汁、さわらの塩焼き、きゅうりとわかめ、おじゃこの酢の物が作業後に待っている。耕運機から降りてきた圭司さんと雑草を一通り抜き終えた私は「「お疲れ様」」と互いに声を掛け合った。しばし、私が空気の冷たさに手をこすっていると、彼が上から大きくて暖かい両手で包み込んでくれた。「えーっ、あったかい。どうして?」恥ずかしさを隠して私は彼に訊いた。「子供のように身も心も純真だからだよって言ったら聞こえはいいけど、心が単に子供なんだよ」「あっ、分かった。幼稚ってこと?」「そういうとこ……」話ながらいつの間にか、私はすっぽりと彼の腕の中にいた。『ずっと、こうしてたいな……』私は何て言えばいいのか分からなくて空を見上げた。「茜色の空がきれい……。とても幸せです」そんなふうな言葉がきれいな夕焼け空に感化され、口をついて出てきた。すると、圭司さんが私の頭の上にそっと顎を乗せて「僕も……」と言ってくれた。その瞬間不思議な感覚に襲われた。宇宙からそのまま地球に向かって、地球上の畑にいる私たち恋人同士をズームインして俯瞰されている気分になる。その視点は私の肉体を超えた存在だと感じる。初めての体験に私は心震えたのだったが、このあともっとすごい感覚を体験することになった。もともと根本さんには好感を持っていたし、自分たちが今生結ばれる縁だと知らされてからどんどん好きになっていったのは確かだけれど、一緒に夕飯を摂っている時にそれは……その感情は突然訪れた。私の心の臓が、もとい、私の心臓が俄かに騒がしくなってきたのだ。根本さんの食事をしている様子を見ているだけで恋しい気持ちが募り、そのあまりの気持ちの強さに私は落ち着きを失くす。彼を抱きしめて……頭も肩もその背中も腕も、全て自分のものにしたいなどという、襲ってしまいたいという欲情に付き動かされることに。こんな怖ろしい初めての自分《私》の感情など知る由もない彼は、いつもの通り紳士的な振る舞いで時をやり過ごし、車で帰って行った。どうしてこうなった